甲か乙かどっちだ、と判断を迫られたとき、甲でなければ乙であるが、常にそう断定できるかということを考えねばならない。甲でないなら丙ではないのか、ということもありうる。二者択一で甲か乙かと迫られると丙も丁も忘れがちとなり、甲乙二者のみに目が行ってしまう。こういうのを禅では「二見(にけん)に堕(だ)す」と言って戒めるようだ。
概ねの通常人(以下、単に人と言う)には自分の信念を「信じたい」という欲求がある。人は常にものごとの黒白があきらかになっていることを好む。そして、自分の信念に自信を持ちたがるものだ。黒白がはっきりしていて自分の信念に自信を持っている方が心が落ちつくからだ。信じたいという欲求は、精神衛生を良く保つための人間の生理的欲求なのだ。
人は無意識のうちに自分の心の平安を自分で守るようにできているのではなかろうか。これは思うに、生きている細胞の命ずるものであり、これによって人は夜もよく眠れるし食欲もあり健康な心身を維持できるのだから、自分の信念を信じていたい傾向や、見通しを明かにしておきたい傾向は、あながち悪いことではない。
しかしながら、この傾向は市場というジャングルには向かない。市場と云うものはそんなに精神衛生を楽しくして且つ利益があるというほど平和なところではない。ゲームは心療内科の部屋で行われているのではない。それは市場というジャングルで行われているのだ。市場における利益とは、精神衛生を悪くした報酬なのかもしれない。
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