投機の流儀 セレクション【vol.7】予言

相場の世界に「予言」と云うものがある。予測ではない。
予言というのは予測と違ってデータを使わないものを言うというのが筆者の一応の定義であるが、この予言というものはおおかた、それが生ずるまでの期日、生じたときの明確な現象などが曖昧になっているものである。「この銘柄群の中に近いうちに暴騰するものが必ずある」という予言は、実は何も言ってないのに等しい。
いくつかの銘柄の中から近いうちに(一、二週間か一、二ヶ月)、暴騰(二割か三割か、あるいは一日だけのストップ高か)するもがあるということは常に事実である。では、どの銘柄が何月何日までに何パーセント(あるいは値幅で何円、何ドル)上がるかを指差してみよ、というと、これははっきりしている。もし、この予言が当らなかったとすると、それは当らなかったままとなるだけで、「そこに何も生じなかった」。何も生じていないのだから人々はすぐに忘れがちである。もし反対に、当ったとすると、それは「稀有なことが生じた」のだから人々の記憶に鮮明に残る。
このようにして予言というものには、次の二とおりがあることが解った。

(イ)多義的解釈(期日や数字が曖昧で、いくとおりもの解釈ができる。ノストルダムスの文章のように)が可能のもので、それが当ったとされて宣伝される。
(ロ)あるいは、具体的に特定できる明確なことを稀に言い当て「当ったという稀有な事実が生じた」ので人々の記憶に残り、言い当てなかったときは「何も生じていない」ので記憶に残らない。

このいずれかである場合が多い。このようにして予言というものはその表現の仕方が、期日や数字は曖昧にしておいて、言葉づかいだけは断定的にすると、ある種の力をもって人の心に残ることがある。その場合、歯切れのよい、メリハリの利いた表現が印象を残しやすい。因みにカ行音とタ行音の言葉を多用すると強く響き、サ行音が多いと澄み切った見通しを述べていると感じるものだという。ところが、市場ではカネという具体物が常に伴うからバケの皮は直ぐに剥がれる仕組みになっている。

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