投機の流儀 セレクション【vol.2】噂で買って、事実で売れ――判断というものについて

週報の読者から下記のようなメールがあったので紹介して私見を述べたい。

「『判断』とは、もともと不確かな情報のもとで行われる決然たる意思の行為である。このお言葉が印象に強く残りました。逆に言えば、正確であり万人が知りえた情報のもとでの行われる意思行為は遅すぎる行動で市場には適さないということでしょうか。曖昧な判断は予想 予測の類で生死をかけた行動ではだろうは通用しないと今までの生活で身にしみてきた小生にとりこの混沌の状態での判断にかなりてこずっております」

前半部分に答えるとすれば「その通りです」と云うしかない。 何年か前に米国SECが「事実を確かめてから買え。噂だけで買うな」と云う文章を「投資家に注意する何カ条」という形で発表した。その時、ウォール街の投資家たちは冷笑してこう云ったという。

「Buy in Rumur.Sell in Fact.」(「噂で買って事実で売れ」)。

実際にSEC の云う通りにやったら、好材料発表後に買え、と云うことになり、先回りして買って待ち伏せていた買い方から「待ってました!」とばかりに利食い売りを浴びることになる。しばしば良いニュースが出てから下がることを「好材料出尽くしの売り」と云うが、まさしく、それである。
事実を確かめないで不安いっぱいで買うからこそ儲ける資格があるのである。

株式投資の儲けとは或る意味では「不安に対する報酬」である。「迷いや悩みを乗り越えた行為に対する報酬」であり、「大いなる精神労働の報酬」である。決して「あぶくゼニ」ではない。
その意味で、「確信して買った人」は儲ける資格はない。彼には不安も悩みもなかったから精神労働をしてないからだ。拙著「投機学入門」(講談社文庫)に「株式投機(投資)で得たカネと、額に汗して得たカネとで、どちらが尊いか」という問題があり、後者の方が尊い、と答える人は株式投資に向かないから早めに市場から去る方が授業料が安く済む、と云う意味のことを述べた。
どちらも同じカネであり交換手段・価値保蔵手段・価値表示手段としては同じ値だが、敢えて比較するなら前者の方が尊い、と云いたい。
それは、そのカネを基にして、またさらなる利益を得るための行為に出かけることができるからだ。
これを、かの大経済学者にして大投資家であったJ.M.ケインズは「貨幣の投機的需要」と云った。ロンドン.シティの果敢なプレーヤーであった彼には分かっていたのだ。

木佐森吉太郎と云う哲人投機家がいた。東大・美学科中退、昭和20年代に野村証券にいた人だが彼は、半世紀前の本で今や古典になった“幻の名著”「新株式実戦論」(東洋経済、いま絶版)でクラウゼビッツの「戦争論」を引用し、判断について「勇気、大胆、いな、無鉄砲さえも必要である」と喝破した。
一方で、「判断」には人並み以上の臆病さも必要なのだ。それがないと皆が「勇気、大胆」になったときに「赤信号、みんなで渡ってみんな死ぬ」と云うことになってしまう。

このメールを寄せてきた読者は判断と云うものついて哲学したに違いない。いま呼び掛けたい。あなたこそ市場で儲ける資格がある人だ。必ず大幅に報いられる日がきますよ。

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